最近わかったことがあるんです。
それは・・
私は「解散」ということがどういうことなのか、理解していないんだということ。
解散した二人に対して、「言葉が生まれない感情」の今の自分。







考えてみたら、私が平川地のライブを体感出来たのは、彼等がデビューしてから10回ぐらい。
去年は2回。今年に関して言えば、途中参加となったあの仙台ライブだけ。
舞台も観れなかった。映画「グーグーだって猫である」も観に行けなかった。
そしてラストライブにも参加出来なかった。
だから、私にとって2人と一緒に時間を共有できた仙台ライブで、一応心の区切りは付けたつもりでいました。
でも今思えば、あの時の私は「解散」という目線を通してライブに参加したんじゃなくて、ただ純粋に
2人の音楽に触れたいという思いであの時間を過ごしたんだな〜って感じます。
もともといろんな都合でライブに参加出来ず、何度も何度も諦めを消化してきた私。
ある意味、そんな諦めから生まれた幾重にも折り重なった複雑な感情が、いつしか参加出来ない事を当たり前に
させていました。哀しいことに・・ね。
だけどその代り、そんな自分と平川地という存在との間に「自分にとっての心地よい距離感」を見出すことが出来ていたんです。
そんな、私にとっての程よい距離感は、解散した今もな〜んにも変わらない。
平川地の音楽は今でも私の心を震わせ、新たな発見を呼び起こし、新鮮な感情を生んでくれる。
だからかな?解散した二人に向けてや、過去を過去として振り返るような感情や言葉が生まれてこないのです。



もう、常に変化し続けていた「平川地一丁目」のライブを体感出来ない・・・という意味が
頭では解っているものの、どうしても心では理解出来ない。
そして、豊かで深い表現で彩られ、いつも新鮮な驚きに満ちていた、2人が生み出す新しい音楽を
もう聴くことが出来ない・・・という意味も。
決して現実逃避しているのではなく、なんていうのかな?   心が固まる。そんな感じ。
だから今でもはるまを見ながら、2人がいずれ結婚し子どもが生まれ親となった時、その思いをどんなふうに
音楽で表現してくれるんだろ?なんて、ワクワク想像してしまうんだろうな私。
そんな自分を哀しい・・と思ったり、ある意味幸せなのかも・・・と思ったり。



とにかく、解散から2ヶ月以上が経った今も、「今までありがとう」が言えない。



でも、「いつもありがとう」の気持ちが変わらず今でも溢れ出てくる私なのでした。