64回目の終戦の日でしたね。






硫黄島からの手紙」という映画をTVで観ました。
64年前は昔ですか?
わたしはそうは思いません。
まだたった64年前の生々しい出来事です。
第二次世界大戦というものがあり、終戦を迎えたのが昭和20年のことだと知ったのはいつのことだったか。
でもそのときの衝撃は今でも覚えています。学校の教室で、教科書で知りました。
「わたしが生まれるたった15年前のことだったなんて」(歳がばれる)
恐ろしいという思いが全身を駆け抜けて、周りの音が聞こえないような、凍りついた一瞬がありました。


たぶん父は23歳で沖縄から帰還したのだと思います。
何年何カ月戦地に赴いていたのかは知りません。
仲良く過ごしていた年下の友が手榴弾にあたり、一瞬で粉々になったのを目の当たりにした、という父の話は、父が亡くなってからずいぶん後に姉から聞かされました。自らも負傷して、だからこそ生き残ったのだという話も姉から聞いたのです。父の体には傷があり、それを見せてもらった事はありましたが、戦争の話はほとんどしなかった。
ただ、戦争をなじり、「天皇がわるいんだ」と、わたしが言ったことがあって、そのとき「天皇でないんだ。戦争をはじめたのは天皇で、ないんだ・・・」と、静かに諭す父をみて、父の苦悩を察知したときが一度だけ、ありました。
父は「戦友」の同窓会的な集まりにも参加せず、なんですか、戦地に赴いた人に支給されるナントカ金というものも受け取らないという考えだったので、家計の苦しい当時、母が「もらえばいいのに」と歯がゆく思ったという話もありました。
(姉や二人の兄は、戦争の体験談なども聞く機会があったのかもしれませんが、末っ子のわたしはいつまで経っても子供扱いでした。余談ですが父が病で余命3か月と宣告されたことですら、当時25歳だったわたしに伝えることを兄弟たちはためらっていたくらいです。)


映画はむごすぎる、理不尽だろ、これはーー!と、叫びだしたい場面が多々ありました。自決を迫られ、一人ひとりが自らの胸に手榴弾を当てて自爆する場面などは地獄でした。
地獄で生きる中にも気高い精神を持ち続ける者、敵に対する考えたかが変わり捕虜として生きる道を選択したのにも関わらず射殺される者、さまざまな生きざまが描かれている映画でした。


310万人という人間がこの戦争で尊い命をおとしました。
悲しみは何年過ぎようとも癒えることはないでしょう。
核の問題も含めて、戦争という行いを決して繰り返してはいけません。




今年20歳を迎える息子にも、世が世であったなら「赤紙」が送られてきたのだろうか・・・と、考えさせられた映画でした。
戦争のことは単に「昔の出来事」などど思っていては大きなしっぺ返しをくらいそうです。
平和に感謝して生きていきたいですね。。