あははは〜。すごいな、みなさんの発想。
え〜っとね〜、わたしは‥‥‥本人が入っててくれたら。(^▽^;)



まずい。赤石さん化してるぞ、私。笑










今日の朝、娘が呟いた。       「早いね。」
私が答えた。              「うん、あっという間だったね。」



今日で母が亡くなって百か日。早かったです。
百か日というのは、故人が亡くなった悲しみに区切りをつける日で
故人への悲しみのために泣き暮らしていたのを、泣きやむ日を意味するのだとか。
でも、ごめんなさい。
私は、母に対する自分の素直などんな感情にも、区切りはつけないよ。
母が亡くなってから、自分を見失うぐらい悲しみに飲み込まれ泣き明かした日や
深い悲しみからどうしても抜け出せなくなってしまった日はなかったけれど、
何気ない普段の生活の中の一瞬一瞬に、ふっと目の裏に湧き上がる静かで熱いものを
感じた時は、何度も何度もありました。
母と背格好の似ている人を見かけた時。
母が大好きだった食べ物を見つけた時。
母に似合いそうな服をみつけた時。
母がこどもたちに書いた手紙の、震える文字を見た時。
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そんな素直な自分の心の動きを、私は抑えたりしたくないなぁ。
だから今日のこの日を穏やかに迎えながらも、これからも私は
湧き上がってくる静かで熱いものを堪えたくはないです。
これからも、泣きたい時は泣くから。おかあさん。笑



それが、今日、母の百か日を迎えた私の感じたこと‥でした。



そうそう、最近息子が言った言葉。


「おばあちゃんが しんだのは ○○○(自分の名前)のせいかも。」


いつもはふざけてばかりいる息子が突然言い出したので、びっくりした。
どうしてそう感じたのか訳を聞くと‥



母が亡くなった前の日の月曜日は、運動会の振替休日で学校が休みだった
こどもたちを連れて母の病院に行ったのですが、その日の母は明らかに様子が
いつもと違っていたのです。
とにかく息が苦しそうで、ぜいぜいという大きな呼吸音が病室に響き渡るも
それはとても弱々しいものでした。
「何かが違う‥」そう、私もこどもたちも感じ取れるほどの様子。
そして何時間か母と一緒に過ごした後、帰り際に息子が母に言ったのです。


「おばあちゃん、無理しないでね。また来るからね。」


息子は、この自分の言った「無理しないでね」の言葉で、
おばあちゃんは無理するのを止めて亡くなったんだと思ったそうです。


そんなことない。
おばあちゃんは、きっと安心したんだよ。
今もおばあちゃんの遺影に話しかけ、「寒いね」と言って遺影の頬に手を当ててあげる
そんな姿を、おばあちゃん喜んでるはず。
だから安心して天国に行ったんだよ。


時にこどもの感性には、驚かされることがありますね。
息子もそのことを引きずっている様子ではありませんが、
おばあちゃんの存在は今も大きいようです。嬉しいことではあるけど
だからこそ私は、普段何気なく過ごす家族の時間の中で、こどもたちに
安心感を伝えていかなければいけないなぁと思いました。